クレバーなオンナ-節子の場合
節子は、わたしのことを産んだ母親だ。
わたしは、人としての尊厳や誇りを、節子から教わった。
節子が夫(わたしの父親)と出会ったのは、夫が自営で始めた電気屋の事務として働いていたときだった。
シャイな2人から、馴れ初めの詳細についてまでは聞かされていないが、とにかく、お見合い結婚ではなかったようだ。
当時はまだ、女性は20代後半に独身でいることは稀であったため、節子もそれなりに、年頃に出会った男が、わたしの父親だったのかもしれない。
2人は、長男が生まれるまで、夫の経営する電気屋の近くに借りた、アパートで暮らしていた。
三姉妹の真ん中である節子は、のんびりしたマイペースな性格だったため、料理や家事などは、初めはとても大変だったそうだ。
それでも真面目な節子は、料理教室にも通い、夫のためにいい妻になろうと、努力していた。
昭和40年代、今のように便利な調味料やレトルト食品など、存在しなかった。
待望の長男が生まれたころ、夫の経営する電気屋が、閉店した。
事業は、上手くいなかった。
田舎の秀才の、青臭い夢は、そう簡単に叶わなかった。
若い夫婦と幼い長男は、借金と共に、夫の実家に戻っていった。
妻である節子は、どんな気持ちであろうと、ついて行くしかない。
あの時代、専業主婦が主たる女の生き方であり、節子も同様に、妻と母親としての自分が、当たり前であった。
夫の実家は、なにもない片田舎にあった。
都市部で生まれ育った節子にとって、驚くことばかりの毎日だった。
田舎独特の人間関係、しきたり、そしてなにより、義理の両親との同居が始まった。
節子は、友達もいない、デパートもない片田舎に、生まれたばかりの長男を守り育てていくために、夫についていった。
夫の実家は、まだ高度経済成長の影響を受けていなかった。
まだ台所は土間であり、水洗トイレに変わったのは、それから10年近く経ったころだった。
ガスや電気は通っていたが、だいたいの家が、同じような状況だった。
節子はとにかく、新しい環境に慣れるため、努力した。
夫には、生きていくために働いてもらうしかない。
長男の面倒も、家事も、自分が全てやるのだと、心に決めていた。
義理の母はまだ若く元気で、長男のことも可愛がってくれていたのが幸いだった。
それでも、他人だった人間が住んでいる家に馴染むには、時間がかかる。
この町に自分の居場所をつくるために、節子は前を向いて歩き出した。